「昭和20年頃の寿し屋」  雑談

私どもの店は、元々寿し屋でしたので、昔「戦中。戦後」の時代の信じられない話を書いてみます。

その頃は米が統制されていました、米販登録業者の登録をし米の配給分で営業し配給の無い日は休業していました。だいたい週四日位だと思います

母親の話では、仕込みの酢合わせ「ご飯に酢を合わせ」していると酢の匂いで、表にお客さんが並んだと言っていました。

。戦後のすし店の歴史の中で 特異な時代は 「飲食営業緊急措置法」が施行された頃である。昭和22年 同法が出されたが その対抗策として考え出されたのが “お米一合持参した人(客)”に 一合分のすしを加工して売り渡す方法であった。すし店は“加工賃”をもらう 委託加工業者として営業をする という抜け道で

 米一合で、盛合わせ1人前 戦後の寿しもっと貧相でした。

米1合と引き換えの一人前の握り寿しは、海苔巻を含めて10個と決められました。この時、すし1個の大きさと10個という基本数が決定し、当店ばかりでなく、すし業界全体の一人前ずしの基本型として、今日まで維持されてきたのであります。

一合折、二合折はその当時に出来たものです。寿司の材料に鰻もその時に登場したもので、戦前には無かったものです。

親父は昭和26年頃、にぎり寿し三ヶ三十円で立ち喰い寿しを阿倍野橋で営んでいました。大卒の初任給が七千円の時、今の貨幣価値で一ヶ二百円・・・立ち喰いで、それでもお客様は並んだそうです。

そうすると今は良い時代だとおもいます。